脳内整理 まるで大学入試用の論文

先日、BSで中国の貧富の差という番組を観た。教科書代の900円が支払えなくて、小学校を辞めさせられた子供。貧困にあえぐ村から大学合格者が出て、けれど入学金の80.000円が支払えず、合格したことに頭を悩ませる女の子。900円も8万もやるから送金先を教えろ! 思わずテレビの前で声をあげた。結局、教科書代は支払えず、子供は家で牛の世話をし、大学合格した子は、親が借りられるところから借金しまくり、大切な牛も売り払い、やっと2万七千円。村人から寄付を募ったところで、一件あたり出せる額はせいぜい百円。とてもじゃないけど足りない。村長が考え抜いて、村自体が保証人になり、融資を受けることになった。無事に大学にいけたのだが、見ていて涙が止まらなかった。

週末になると、街頭のあちこちでボランティアの人達が募金箱を首から下げ、声高に寄付を呼びかける。わたしは、あれを見るたびに、溜息をつく。効率がわるい。
彼らは本気で被害者、被災者を助ける気があるんだろうか。ほんとうの慈善というのは、黙って身を削り寄付をすることなんじゃないのか。そこで、もっとも効率よく、みんなが自尊心を保てる募金の集め方を考えてみた。
まず、代表が一人。これには完全なボランティアで生活に不自由しておらず、少々名声欲がある人を採用。
インターネットで無料スペースを借り、サイトを立ち上げる。そこで集うのだ。労働力と、それを雇ってくれる会社を。
週末、あの街頭に立っている時間を、労働時間にあてる。地域によって物価の差があるが平均して一人の労働力で日当八千円にはなるだろう。日本中から集めるのだから、最低でも百人。最初は三十人でもいい。どうせ勝手に増えていく。
その労働力を一日だけ雇用してくれる企業を募る。雇用に名乗りをあげた企業は「協賛企業」としてサイト上に名前を連ねる。企業は、慈善団体としてお手軽に宣伝ができる。一日だけ派遣会社から人手を借りると、一万五千円はかかる。それが8,000円で済むのだ。しかも、慈善事業に寄付できるというクリーンなイメージもつく。企業に損はない。
労働力として名乗りをあげる者は、募金箱を首からぶら下げて街頭に立っている。じつは、わたしはずっと、もう半年以上も子供関係の団体に毎月寄付している。口座から勝手に引き落とされるのだが。ほんとうに助けたいとおもってたら、募金を募るのではなく、一日困ってる人たちのために、無欲に働いてやれば良いのだ。わたしは、それが「まとも」な思考だと考えてる。なぜわざわざ街頭に立つのか。それは、自分がいい人であるというアピールが必要だからだ。わたしが寄付してることなんて極限られた人間しか知らない。けれど、誰かに誉めてもらいたいかと問われたら、勘弁してほしい。やりたいからやってるだけなのだ。自己満足に過ぎない。けれど、街頭に立ってる人たちには、慈善やってます俺っていい人ですアピールが必要だ。なので、その自尊心を満たして労働させてやればいい。会社に派遣されて出向くのだから、彼の一日の労働はすべて寄付を求めている人たちのためのものだと会社の人達は認識する。街頭で白い目で見られながら呼びかけても無視されるより、小さな工場にでも行って「君は立派だね〜」と声をかけられる方がずっと気持ちいいはずだ。
企業からの雇用。労働力の確保。それを管理してる人間はただ働きかといえば、そうではない。代表者は、この前代未聞のシステムをマスコミに売り込むのだ。そこで発生する取材費を全部公開する。交通費などの実経費を差し引いた額を全部また寄付してしまう。代表の名声欲は立派に保たれる。
労働者には、交通費と昼食代として一日最高1500円を支給。日当8000円から1500円を引いた6500円が、一人当たりの寄付金だ。6500円が100人いれば、650.000円。一月で週末企画として4回行ったとして、650.000×4=2,600.000 単純計算で200万以上は毎月寄付できる計算だ。
この方が、街頭で募金を募るより遥かに効率的で、みんなが幸せになれる。労働に従事した者の名は全部公開して、彼らの寄付額も公開する。名前を出したくない者は仮名で構わない。とにかく、すべてをクリアに公表するのだ。
毎月200万寄付できれば、発展途上国にバンバン雇用が生まれ、学校も立ち、教科書代が払えなくて小学校にいけない子供たちが激減する。教育は、子供たちの未来を明るくする一番効率のいい方法だ。
労働者には、寄付先を選択する権利がある。寄付先を選んでおいてもらい、代表は寄付金を振り分ける。交通遺児、孤児、被災者、あらゆるところに平等にお金が行き渡る。
お金というのは、誠意だ。困ったときに、一番人を助ける力をもつのは、現金だ。これは、間違いない。「がんばってください」と声をかけられるよりも黙って一万円渡された方が役に立つのだ。
寄付を受け取った者の一割でも、自分に余裕ができたときに寄付する側に回れば良いのだ。そうやって社会は慈善スパイラルを生む。
よく、海外などで子供にお菓子やお金をあげてはいけないって云うけれど。わたしはそうは思わない。何百人に一人くらいは、絶対に「感謝」をするはずだ。人って、そういうものだ。その1%の人間が、いつか社会に出たときに、そのときの嬉しい気持を大切にしていてくれたら、またその人は、誰かに優しくできるのだから。施しや、哀れみではない。そうやって、循環していくのだ。