老いるということ

今回、師匠、Nさんのおかあさんの看病をしていて、いろんなことを感じた。
記録として残したいと思う。
お母さんは、80すぎで一人暮らし。生駒の山奥の一戸建てに住み、歩いて行ける距離に次男夫婦が住んでいる。長男夫婦は東京で暮らしていた。
お母さんは、庭で倒れて8時間身動きがとれず、途中で雨が降ってきた。夕方8時ころ帰宅した隣の家の息子が倒れているお母さんを見つけて塀を乗り越えて助けてくれる。救急車を呼んでくれ、そのまま運ばれ入院。翌日、東京から長男であるNさんが病院に着いた。で、次男夫婦は何をしていたかというと、翌日長男が到着してから初めて病院に行った。
私が看病している間、Nさんの奥さんは子供が生まれたばかりだから仕方ないとしても、次男の嫁は一度も顔を出さなかった。家族って、こんなもんなの?

私が奈良に行きますと連絡をしたとき、Nさんは「ありがたいけど」とどこかぎこちない反応をした。今までお母さんが何度か倒れたのだが、私は黙って見てきた。けど、今回は黙ってられなかった。明らかに、女手が足りない。
「Nさんのためじゃないんです。私にとって父親とも云えるNさんを産んだ人は、私にとって大切な人なんです。すぐに動けるので、できることがあったら連絡ください。準備して待ってます」
「それなら、来てくれ。ありがとう」
東京でしなければならないことを午前中に済ませ、私はすぐに奈良に向かった。
到着すると、病棟の端に据えられた喫煙コーナーでNさんがタバコを吸いながら、そばにいるだけで凍りつくような緊張感を発していた。何かあったんだ・・・
「昨日の夜から急性痴呆が始まったらしい。夢と現実の区別がついてないらしくてな」
痴呆。
お母さんは、8時間も雨の降る中、誰も助けに来てくれないまま、たった一人で、想像もできない孤独を味わったのだ。ショック症状が起こっても仕方ない。医者に聞くと、とにかく妄想や幻覚を語りだしたら否定してくれ、と。夢と現の区別をこちらがつけてあげて、現実に引き戻すのが大切だ、といわれた。とにかく、会話をしよう。そして、明らかに幻覚を語りだしたら否定しよう。
「あの天井のところに蛇がいてるねん。それがぶら下がって落ちてくるのよ」
「違うよ、お母さん。あれはね、天井の模様やよ。病院にへびがおったら、病院は営業できひんくなるでしょ。だから、へびなんかいてないよ。でてきても、私が追い払ってあげるから、安心して寝てね」
「そぉかぁ。へびと違うんか」
こんな会話を何十回も繰り返し、私は否定し続けた。そして、できるだけ記憶を正確に辿ってもらうために、二人の息子の幼少期の話などを尋ね、お母さんが起きている限り話をし続けた。
3日目。
「あの、見えてたへびな、あれ、私の幻覚やったんやな。夢見てたんやなぁ」
ちょっと、涙が出た。お母さんは、自分で夢と現の区別がつくようになったのだ。
私は、ずっとお母さんと話をする中で気になっていたことがあった。それはお母さんの選ぶ言葉のセンスだ。なんというか、卓越している。ちょっと普通じゃないセンスをみせるのだ。Nさんの弟さんは、気の弱い頼りない感じのする人だ。その次男をさして、お母さんは云った。「あの子はね、意気地なしなのよ」。びっくりした。いくじなし。そんな日本語忘れてた。味わいの深い、そして、母親から見た我が子へのとても適切で愛情と悲しみの交わった言葉。こんな言葉が会話のあちこちに散りばめられている。
「お母さんの言葉のセンスが、Nさんに遺伝したんですね」
そう云うと、Nさんはお母さんの書いたという短歌集を持ってきてくれた。短歌を作ってたのか! 読んで、少し、嫉妬した。私は正直、他人の書いたものに嫉妬なんてしない質だ。他人は他人、自分は自分なので、どうでも良い。良いものを作っていたら「すごいなー」で終わる。けど、この短歌集には、ちょっと嫉妬した。「ホコホコホコとやきいもの湯気」という一節が忘れられないのだけれど。お母さんと、その日から短歌の話をするようになった。麻痺していて両手が動かない状態だったのだが
「早く元気になって、また短歌をたくさん詠んでみせてください。わたしの良い勉強になります。ステキな関西の古い言葉とか、私の知らない言葉を教えてくださいよ」
「短歌はね、毎日作ってたの。広告を半分に切ってノートを作ってね、毎日たくさん作ってたの」
その日から、お母さんは、自分でお茶を飲む努力をし始めた。手が震えて、力が入らない身体では、コップさえまともに持てないのだ。それを、やっと、自力でやろうとし始めた。すごく、嬉しかった。
「こぼしても、ちゃんと拭くからね。だから、安心してリハビリしてね。シーツも毎日でも洗ってあげるから、汚すのは気にしないでね」
お母さんはにっこり笑って、ありがとうって云った。
動かなかった足も毎日マッサージして、床ずれができないように全身を摩って、時間の許す限り話をして。そして、少しずつ、何かが動き始めた。