ものをつくるということ

「何か作ってないと生きていけないの」とか云う人が嫌いだ。出身大学に美術学部があったこともあり、「ものを作る」ということは、一時期かなり考えさせられた。
私が「ともだち」と呼んでいる人間は、多くが何かを作り続けている。ある者は自分の作りたいものを作れる会社に就職し、一日4時間しか寝れない職場で身体をボロボロにしながら、こう云った。
「毎日が祭や!」
あほちゃうか、と思ったけれども、笑いが止まらなかった。何考えてるんや! って思ったけれども、確かに、幼少期から憧れていた世界に今まさにいて、それに関わってるんだから。しかも仕事にしたってことは他人の金でそれができるってことで。確かに祭である。
大学を卒業したら音楽で生活していきたいって云った子が私の周囲には一番多かった。男友達はほとんどみんなバンドとかしてたから。でも、そんなことできるのはほんの一握り。バラバラと就職したり田舎に帰ったりし始めている。けれど、そこに、「諦め」なんてものが感じられない。やつらにとって「ものを作る(音楽も一緒だ)」ってことは、日常の一部であって特別なことじゃない。なので、仕事が変わったからといって何も変化がないのだ。これが、普通だと思う。
陶芸をするために、弟子入りして、今陶芸教室の講師をしている子とか。みんな、何か作ってる状態が普通なので、あえてそれを口にしたりしない。私は、そんなもんだと思っていた。
大学のころ、私は周囲をすごいカッコイイって思ってた。彼らが作るものは、稚拙であっても自己満足であっても、「作る」って行為がすごいなぁと感じていたのだ。あんなに疲れることを日常の中に当たり前に取り入れてる彼らのパワーに毎日驚いていた。陶芸やってるからって、陶芸ばかりしてるんじゃない。彼女の着てる服は9割、自分で作ったものだ。デザイン科にいて、ポスターばかり狂ったみたいに作ってた女も、自分の服は自分で作っていた。彼らの創造意欲はあらゆるものに向けられる。すげー、こいつらあほや。いつも、遠くから眺めていた。私は何も作れない人。自分をそう位置づけしていた。
ある日、シロウちゃんという子が、私に携帯を見せてこう言った「ほら、オリエちゃんにも、作れるものがあるんやで。誰にだって、モノを作ることができる。だから特別なことじゃないねん」。何かと思って覗き込んだら、受信メールの送信者が全件「おりえ」で埋めつくされていた。こういう日常のメールも、書いてるってことで作ってるってことなんだ、と。モノを作るってのは、その程度のものなんだ、と。それを私に教えたくて、彼は他の人から来たメールを全部毎回、こまめに消去してくれていたらしい。すごいびっくりしたと同時に、私の周囲にいる人間にとっての音楽やモノを作ることの意味がやっと分かったような気がした。それから私は「消費専門」だと云わなくなった。
去年あたり、素人さんの集まる「創作畑」ってのに遊びに行った。知り合いがずっと参加していて、それに連れてってもらったのだ。正直、幻滅した。なんだこれは。まさに、大きな会場を貸し切ってのオナニー大会だったのだ。そういう意味で楽しめるので、良いんだけど。それまで私が見てきた「モノを作る」って姿勢と、あまりにもかけ離れたものが、そこにあった。
乱雑な作品の山。ただそこに参加したいがために、何かを作ってる自分に酔いたいがために、無駄に資源を消費しているとしか思えなかった。これは巨大サークルのお披露目会だ・・・ そう思った。「おりえちゃんも何か書いて持っておいで」って云われていたけれども、できなかった。違う。おりえの目指しているものは、ここには欠片もない。そう感じた。打ち上げにも参加したんだけど。そこで、隣に座った人に色々話を聞いて、さらに確信した。私と彼らの姿勢の違いをひしひしと感じて、その原因もはっきりした。彼らには、プロ意識がないのだ。「客がお金を払って読むもの」であるという意識が完全に欠落していた。隣に座った人の作品を見せてもらい、素直な感想を告げて、彼にその説明を求めた。返ってきた言葉は「時間がなかったからね」。んじゃ金取るな。発表すんな。思わず云ってしまい、相手はえへへと笑った。ここはあたしのいる場所じゃない。そう、思った。
私が目指しているもの、それは、社会的に何らかの意義をもつものだ。以前やってたサイトを読んだ人がメールをくれた。「あなたの書いた●●を読んで、ぼくと息子は救われました。ありがとう」たったこれだけのメールが、私の意識を変えた。元気になれます、だとか、友達になりたいだとか、そういうメールは毎日ばかみたいに来てたけど、これは異質だった。「何があったのか知りませんが、お役に立てたのなら嬉しいです」というメールを返したら「面倒でなければ読んでください」と救われた内容を教えてくれた。すごい泣けた。息子が海外で犯罪を犯し強制送還されて帰って来た。ずっと良い子だったのに、とどう接していいか分からなくなり、母親は子供との別居を望み、息子と父親と二人で今生活している。その父親からのメールだったんだけど。私が書いてたものには「親が子供にできるのは無尽蔵に愛情を注ぐことだけで、子供に親が教えられるのは人の愛し方だけだ」っていうようなことだった。そして、最後に、こうあった。「あれを読んでから、息子を抱き締めてみました。そして一緒に映画を見に行きました。たったこれだけのことで、息子が急に明るくなりました。自分の中にある息子への愛情を素直に出すだけでよかったんですね」と。それまで私の思考の中には「おりえ」対「個人」しかなかった。けれどもこれは社会の最少構成単位である家族ってものとの関わりだった。社会的な価値を初めて意識した瞬間だった。これだ、これがやりたい。すぐに「ライターになる!」とあちこちに言いまくって、すぐに「んじゃ出版社行こう」とあるおじさんが云いだして、あたしは今にいたる。
ものを作るということに二次的な価値は別にいらないと思う。ただ、何かを作るってのは、ごく当たり前のことなんだ。人間はずっとそうやって文化を築いてきたのだから。何も特別なことじゃない。それをわざわざ「創作」なんて言葉を口にして特化しようとするからややこしくなるんじゃないのか。ただ作りたいから作る。作りたくないなら作らないで良いんだよ。やりたいときにやればいい。ユウコって子が、すごいセンスを持ってるのに、あっさり作るのを辞めた。そして云った。「今は別に作りたいと思わないから。またやりたくなれば作れば良いだけやん」と。これが、真理だと思う。締切りがあるだとか、そういうのを素人同士でやってるのは、サークル活動なんだ。プロにはあるけれども。あくまで素人に限定するなら、今度の販売会に間に合うように作るってのは、違うと思う。本当に、人に見せられるようなモノが完成したときにだけ、公開したら良い。ただ何かに間に合わせるために作って公開して、それに対して「時間がなかった」だとか「もっとここをこうすれば良かった」なんて言い訳を口にするなんて愚の骨頂だ。んじゃ公開すんな。資源の無駄だ。次にもあるだろう、そういう会は。それまで温めておけよ。そう思ってしまう。去年行った創作畑は、サークル活動だって思ったのは、そこだ。そのサークルに参加するために、作品を作ってるのだ。自分の中で何かが生まれたときに作ったものを発表してるんじゃない。プロにはプロの、素人には素人の利点があるのに。素人の利点は、いつ作っても良いことだ。ならば、ある程度の完成度を求めたら良いのに、時間がなくて間に合わなかったから、ここは中途半端なんだけどね、なんて云いやがる。あほかっちゅうねん。んじゃ完成形にしてから持って来い。あんな言い訳をあたしがNさんにしたら「帰れ、死ね、穴掘って埋まってこい」って確実に怒鳴られる。そんなレベルの話だ。いや、話にもならない。それ以前の問題だ。
素人の創作、ここんとこ、色々聞いてて考えたんだけど。作りたくないのに、周囲に急かされて作るのは、絶対に違うよ。やりたいときにやれば良いんだよ。創作活動が高尚なもんだなんて、勘違いも甚だしい。教師として創作を考えた場合、生徒に視野を広げさせるため、とかいう付加価値があるだろうから。だから、不快じゃなかったんだな、きっと。今までかずくんの話を聞いてて、かずくんはずっと生徒のことを念頭において「創作」って言葉を使ってたんだ。やっとそれに気付いた。だから不快じゃなかった。んじゃ何が不快なのかって、創作を高尚なもので特別なものだって思ってる人を不愉快だと感じてるんだ、あたしは。
周囲なんて放っておけばいい。衝動なんてものもいらないと思うよ。ただ、つくりたいなーって思ったときに作れば良いんだ。何かを特別な行為だと思うことに、私はものすごい不快感を示す。いつもそうなんだけど。そして、創作畑で私が不快感をあらわにしてしまった相手は「いつかプロになりたい」とのたまった。え、こんな意識で? 呆れて言葉が出なかった。
素人には素人の楽しみ方がある。それは私も知ってる。だから、それで良いんだ。でも、プロになりたいのなら、もっと意識を変えないといけない。「モノを作らないと生きていけないんです、自分を維持できないんです」なんて云ってる人間とプロとはまったく違う。楽しめないと、だめだろ。
なぜ自分を何か特別な生き物であると定義付けしたいのか、さっぱり分からん。モノを作るのなんて特別なことじゃない。どんな人間も、特別じゃない。ごく、自然なんだ。その人にとっては。ほんとうに、ばかばかしい。