育てられ方

うちの家は、良い家庭だったんだなって思うことがよくある。それは、子どもの叱り方、誉め方、評価の仕方において。
私は周囲が呆れるくらい誉められて育った。「うちのオリエは世界一なんです」と、母は誰にでも云う。んじゃ長女の薫は? と聞くと「薫も世界一やん。あんな良い子おらんよ」。んじゃ次女のアヤコは? と聞いても、同じ答えが返ってくる。何をしても誉める。褒めちぎる。母キヨコにとって3人の娘は自慢で誇りなのだ。私はずっと親ってのはそういうもんだと思っていた。私が母の日に大枚はたいて買ったバッグ(これは本当に高かった)を持ち歩き、会う人会う人に「これオリエが買ってくれたんです〜」と自慢する。母キヨコはそういう人で、それが普通の親だと思っていた。なので私も人にもらったものを、会う人会う人に自慢する。あっちゃんが買ってくれた万年筆はかずくんにもトモミさんにも自慢した。嬉しいんだもん。最近はシャーペンも一緒に見せて自慢している。自慢したいんだ。でも、それが案外珍しいことなんだってのに、つい最近気付いた。でも、恥ずかしいとは思ってない。
私は姉を自慢する。あんなステキな姉ちゃんは他にいない。本当に姉ちゃんの子どもに生まれた姪や甥は幸せものだと思うし、旦那は果報者だと思う。その姉の妹であることを、私は本気で誇りに思っている。自慢の姉ちゃんやから。私のそんな言葉を聞いた人は多いはずだ。いつも云ってるから。本気で。
私は人前で、家族にけなされたことなんて、一度もない。それが、当たり前だった。キヨコは確かにとんでもない女だけれども、姉二人を育て上げたという点において、彼女は優れた素質を持っていると思うし、私はキヨコのことを愛してると公言している。
叱られたことも、もちろんある。何か悪いことをしたら、まず最初に経緯を聞いてくれる。そして「オリエはここが悪い。でも、この部分は仕方なかったね」という叱り方をする。一件の出来事を丸ごと詫びたことはない。なので、私の謝り方はいつも「ここはオリエが悪かったね、ごめんなさい」だ。あっちゃんはよく知ってるだろう。そして、自分の悪いところを弁解すると容赦なく飛んでくる言葉「言い訳はしなさんな。あんたが悪いと思ってるから言い訳するんやろ」と。すごく冷静に一件を判断してくれているので、その通りなのだ。なので、私は言い訳をしない。そして他人の言い訳も許さない。聞いててみっともないように思うのだ。そんな点が潔いと云って、年配の人に気に入られることが多い。悪いと思ったら素直にすぐに謝る。思わなかったら何があっても謝らない。うちの家ではそれで良かった。今でもそれで良いと思ってる。素直に謝る。間違いを正す。どこが悪いのかをちゃんと教えてくれる。だから私はいつも素直に謝れたし、酌量の余地がある部分は受け入れてくれた。そういう家庭だった。
あっちゃんが、私が姪っ子を叱っているのを見て、最初驚いていた。言葉を理解しない頃から、私は姪や甥に「人にものを投げたら、目に当たったりして危ないでしょ。相手が失明したらどうするの。目に当たらなくても痛いでしょ」と、ただ投げちゃいけないって云うんじゃなくて、全部説明していた。それこそ相手が一歳であろうが10歳であろうが叱り方は何も変わらない。なので一回叱ったことは、うちの姪や甥は2度としない。それどころか、よその子が自分が叱られたことをしていたら「それはね・・・」って説教しに行ってた。私や彼らの母親が叱ったのと同じことを云っていた。それが、当たり前だと思っていた。あっちゃんが何を驚いているのか、分からなかったのだ。「お前のは怒ってるんじゃなくて叱ってるんやなぁ」とお酒を飮みながらこぼしたのを聞いて、怒ってどうすんだよ、と思わず突っ込んだ。私はあっちゃんの言葉に逆に驚いた。怒るってのは感情をぶるけること。叱るってのは諭すこと。子どもだって、理解できることは理解しようと努力するんだ。こっちの態度次第だよ。
勉強をしなさいと云われたことはなかった。学校の成績について話をしたのは、3回だけ。社会科で38点取ったときに母キヨコが大笑いした。「こんな点数、取れるもんなん?」うちは姉が二人とも恐ろしく成績が良くて、私もずっと優等生だったので、母はそんな点数見たことがなかったのだ。「そうやねん。もうさっぱり分からんねん。名古屋って県とちゃうんやで。知ってた?」なんて会話があった。二人でケラケラ笑ったのが一回。家庭科で欠点を取ったときに姉が「あんたこんな副教科で欠点って素行が悪いってことやで。何してるん、授業中」と。その頃、私は家庭科の先生相手に一人でストライキをしていて、授業を受けていなかった。テストの点は90点あったので欠点になるはずはなかったのだが、嫌われていたのだろう。やられた。「んー、裁縫苦手やねん」と誤魔化すと、「教えたるから課題、持って帰っておいで」と。それで終わった。あとは国語でキチガイじみた100点を取り続けたときに、姉が「すごいな100って。高校の成績で100なんて初めて見たわ」と。勉強の話って、大学まで出たのに、たったこれだけ。これが全部だ。
自分でやりたいことを云わないと、何もさせてもらえない家だった。でも、やりたいことを伝えるとどんなことをしてでもさせてくれた。大学に行きたいと姉に伝えた翌日、姉は大量の塾のパンフレットを持って帰って来た。高校時代、私は母とは離れて暮らしていた。姉が生活費も学費も全部出してくれていた。自分にも子どもが二人いて生活があるのに。「どこにする? ここ教室キレイやけど、遠いよなぁ。ここは? 近いけど、でもなんか先生年寄りっぽいなぁ」とか云ってた。云いさえすれば、何でもさせてくれる。でも自分から云わないと何もできない。ほしいと云えば買ってくれた。でも、云わないと何もアクションの起こらない家庭だった。小さい頃から、一個の人間として、認めてくれていたってことだ。そして漠然と、そういう自覚があった。
最初に親が離婚したとき、私は6歳だった。「オリエは誰と一緒に暮らす?」。選択肢は姉、母、父。私は母を選んだ。自分の意志で選んだ。小さいころから全部、決定は自分でしないといけなかった。誰も、私のことを決めてはくれなかった。それが辛いこともあったけれども、今、感謝している。
小学校で描いた絵を誉められた。画用紙いっぱいいっぱいに、机に色がはみ出ても平気で絵を描いていた私は、先生にいつも叱られていた。でも、そんな絵を家族は誉めてくれた。「元気で明るくていいやん」。それで、満足だった。誉めてほしいところは、必ず見ていてくれた。失敗しても叱られたことなんてなかった。「もっかいやってみ」聞こえてくる言葉は、いつもこれだった。
私は良い家庭に育ったんだなぁって思う。家庭じゃないな。家族だな。母の言葉を借りるなら「世界一の家族」なんだろうな。