覚え書き 書いてある内容がすんなり吸収できた方、連絡ください。聞かせてほしい、意見を。


世の中には、二つのタイプの人間がいる。
自分で「自分の地図」を描ける人間と、自分では「自分の地図」を書けない人間。
自分の地図を書けない人間は、核になる価値観がなく、流行や他人の意見に左右されそのたびに新しい地図に修正する。そこには、自分の絶対的な価値観がない。あるとすれば、他人に合わせていれば安心だ、という価値観だ。
自分で地図を描ける人間は、流行や意見に影響されることがない。
自分で地図を描ける人間は、さらに二つに分類される。自分の地図を絶対に書き換えない人間と、他者の地図を覗き見たり意見を聞いたりして書き換えていける人間。
そして、この自分の地図を持つ人間の中に、別格が存在する。自分の地図だけでなく、世界地図を持った人間と、他人の地図を書き換えることのできる人間。
世界地図を持つ者は、あまりにもその世界観が広すぎて、孤高の存在になりやすい。けれど、地図が大きく自分で修正するのも好きなので他者との関わりを好む。そして、惜しみなく自分の地図を広げて見せ、たくさんの道があることを教える。ただ、あまりにも見ている世界が広いので、関わる人間の全てに道順を教えてはいられない。地図は見せるが、自分で道は探せ、と云う。彼らが道順を教える相手というのは、彼が間違った道を歩いてほしくない人間。つまり、愛されている人間だ。
世界地図を持った人間を、そうだと判断するのにはとても時間がかかる。蟻が人間を認識できないのと同じだ。
そしてもう一つの別格である地図を書き換えることができる人間、それは、いわゆるカリスマだ。自分の地図を持たない人間には、自らの地図を見せ、また各個人に合わせて地図を提示してみせる。そして、絶対的な価値観を持った、地図を書き換えようとしない頑固な人間の地図に、新しい道を書き込むことができる希少な存在。地図を持たない人間には、立派で優しい神のような存在におもわれ、また地図を書き換えないタイプの人間には、唯一意見を聞き入れ、自分の地図に道を書き込むことを許容できる特別な存在として扱われる。
ある種の価値観の破壊。
それができるのが、カリスマである、書き換える力を持った人間。

そして、器の話。
人には、それぞれが持つ器がある。器の大きな人間が優れているというのは迷信だ。小さくても美しい器を持つものもいれば、スバラシイ機能美に溢れ、無駄のない造りをした器を持つものもいる。それぞれに社会的な役割があり、そのすべてに長所がある。
夢を持って、自分に何か才能があると信じて生きるのは、ステキなことだ。
けれど、それがとんだ勘違いだったとしたら、その才能を認めろと強要された人間は困惑し、窮する。使い物にならない器を押しつけられても迷惑だ。汁物も煮物ものらず、茶を注ぐことも適わない。いったい何に利用できる器なのだろう。そう考えさせられる器を押しつけてくる人種が、あまりにも多い。
己を知り、自分の器の大きさ、模様、質などを自覚することは、とても大切だ。
何かができると信じて生きるのは、スバラシイことなのだけれども。
人間独りの力などたかが知れていて、そして、他者に利用され、必要とされるだけの器を持った人間の数は、限られている。そこに自分が入っているとおもうのは自由だが。
器を利用しるのは、常に自分で。多くの者には、他者を乗せる余地はない。
この器になら乗ってみたい、この器を使ってみたい。そう思われる人間というのが、才能をもった者だ。
それを判断するのは他者なのだということを忘れてはならない。

以上が、今日ワカコの愚痴を聞いていて感じたこと。

きっと、神というのは、人間の中にある逃走本能の作り出した虚像なのだろうな。
己を過大評価することは、恥ずかしいことではないのだろうけれど。
わたしには、カッコ悪いことだ。