にゃあ

あ、この人凹んでるって気づいたのに気づかないふりをしてしまった。書き上げて注ぎきって、わたしは他人に何かを注ぐ気力が残ってなかった。ちょっと反省。
潤っていたいな。
いつどんなことがあっても、自分を削ることなく人に注げる人間でいたい。
Nさんがこないだ凹んでるわたしに云った。
おれはおまえを初めて見たときに、すごい驚いたんや。まだこんな子がいてたんかぁって。自分のことを省みずに他人のことでばっかり泣いたり笑ったりして。明らかにおまえが参ってるときでも、おまえは他人のことばっかり考えてる。こんな奇跡みたいな人間がまだおったんかって、おれは感激したよ。
書いてるときのわたしは、そうでもないんだけれど。たしかにふだんは、あんまり自分に興味がない。
わたしは、自分のことを特別だとおもっていない。どうしてもおもえない。いくら考えても、わたしと同じことをすれば、みんな今わたしがやってるくらいのことは、できるのだもの。センスがあるとか、そんなんじゃないよ。変わってるとか、すごいねとか、特別だって云われるのを、ずっと必死に否定してきた。でも、今度はそれが急にわたしにとってマイナスに働き始めた。
物書きになれる人間は、野球選手になるよりも東大に行くよりもずっと少ない。文章を書いて生活していけるだけの人って、一握りどころの騒ぎじゃないんだ。それだけの資質が必要になってくる。そんな資質、あるのか、このわたしに・・・
ない。
そう考えたら、急に何もできなくなった。んじゃどうしよう。なにやって生きていこう。他には何も見当たらない。困ったな。そんな無限スパイラルにはまり込んでしまったのだ。
わたしって、物書きになれるとおもう?
即答で帰って来た。「なれるよ」。わたしが賭けて良いっておもった人間が云うんだ。んじゃなれるな。きっと大丈夫だ。
みーんな自分の中では自分が一番だし、自分が特別。けど、それを評価してもらわないと意味がない。ほんまもんになるのに、一番重要なのは、自分の思い込みではなく他者からの評価だ。信じるのは自分。決めるのは他人。
今まで「わたしってちょっと人とちがうでしょ」ってアピールする人達に接してきて、うんざりしていた。こんな面倒くさい人間にはなりたくないなぁっておもってた。誰も評価してないのに、自分でちょっと人よりできることで自惚れていて。何かで評価を受けようとおもったら、広い世界に出ないといけない。そこで評価されてなんぼやろ。小さい教室で「上手ねぇ」なんて云われてても仕方ないんだよ。自分のことを何も知らない人の中で、自分自身ではなく作品だけをぽーんと突き出して「これは良いね」って云われて、初めて評価されたって云うんだ。
自分のことを知ってる人間にだけ誉められても意味がない。その称賛のほとんどは、人付き合いなのだから。何か習い事をしていてそこで誉められるものは、月謝を払ってるからだ。下手な人間を育てるよりデキる人間を育てるほうが面白い。
自分を鶴だとおもうなら、掃き溜めにいちゃダメなんだよ。
東京に出てきて、痛感した。大阪では、ずっと村の看板娘みたいにチヤホヤされて、すごいすごいって云われて。ふーんっておもってたけれど、どこかで思い上がっていた部分があるんだ。でも、ちがう。こっちに来て良かったなっておもう。最底辺からの出発にはならなかったけれど。それでも、大阪にいたときとは、明らかにちがう。それが、しんどいけれど、心地良い。
一部の人間は、わたしが負けて泣きながら大阪に帰っていくことを想定して準備を進めている。仕事の確保とか、住む場所なんかを、用意してくれてる。こっそりやってても情報はどこからでも入ってくるのだ。ありがたいなぁって笑ってしまった。みんなに心配や負担をかけながらでないと、わたしは生きていけない。でも、そこまでしてくれるんだから、きっとわたしにはそれだけの価値があるんだろう。
そう、思い込むことにした。
昨日、気づいてたのに無視しちゃってごめんなさい。もう潤ってるから、しんどいならいつでも連絡ください。わたしは自分で潤えるように、なってきているよ。