ニュースの天才

ごめんなさい。わたしが間違っていました。コラテラルで、悪役は悪役に徹するべきだと申し上げましたが。それが主役である場合、悪役で終わってはなりません。それをこの不愉快極まりない映画「ニュースの天才」で痛感し、ここに改心いたしましたことを報告させて頂きます。
いやぁ、不愉快な映画だった。これは「戦場のピアニスト」以来の不快感。正直、戦場のピアニストの方がまだましだ。だって、戦争って抗えない渦中にいたのだから。けど、なんだよこいつ。んっとに、射殺したい。甘えた人間は認めない。思い出しても腹が立つ。
Nさんに映画を見てきたことを報告すると、なるほどとおもうことを云ってた。
「あの映画の主人公の悲劇は、彼に作家としての資質がありすぎたことや」
なるほどなぁとおもった。たしかに、彼が単なる新聞記者だったら、あんな事件は起こらなかった。彼は作家の資質をもっていて、あまりにも文章能力が高かったのだ。だから、周囲は躍らされてしまった。うそをどこまで真実にできるかってのが小説だ。達者なうそつきになれと、わたしはいつも云われている。それが、天性でできたのがこの映画の主人公だったのだ。
でも、むかつく。きらいなもんは嫌いじゃ。
もう、お金もらっても観たくない映画だ。
事実を映画化したものだから、主人公が良いやつになれないのは仕方ないかもしれない。 なんておもわないぞ、あたしは。ビューティフルマインドのように脚色すれば良いのに。すべてをありのまま映像化するのに映画である必要はないだろう。なーんか違うような気がする。主人公が捏造に至る葛藤をもっと深く切り込んで描いてくれれば、ここまで不愉快にはならなかったんだけど。じっさい、見終わって、冷静になったときに捏造に至るまでの苦しみみたいなのに思いをはせて切なくなったりもしたんだけど。
おりえはおりえの美学を追求するために、この主人公はみとめない。
主人公を好きになれない作品は、感情移入できないからだめだと教えられてきたが、それを深く理解できた。そういう意味では観て良かったのかもしれない。この主人公は単なるイヤなやつだ。弱くてずるくて、わたしの一番きらいなタイプだ。死ねば良いのに。なんどもそうおもった。
主人公は、最後に良いやつにならないといけない。エンターテイメントには、救いが必要なのだ。