止まらなくなってきた わかちゃんについて

ある日、帰宅して寂しそうな顏で云った。
「あんな、今日な、納豆タンクがもう一杯なんで納豆は食べられないんですってバイト先の人に云うたんよ。そしたら、納豆タンクって何? って聞かれてさ」
・・・はい?
「だって、おりえちゃんやったら普通に理解してくれるやん。よくあるねん、こういう言葉を説明せなあかんことが」
ふーん。
『納豆タンク』この意味が分かるだろうか。わかが深刻な顏でこれを言い出さないと、私も普通には理解されない言葉だということには気付かなかった。
「納豆タンクがいっぱいだからもう食べられない」というのは、つまり「納豆は食べ飽きた」というだけのことなのだが。私には、わかのイメージしている映像が分かる。けれど、それをリアルタイムで感じ取ってくれる人が少ないらしい。それを彼女は嘆いている。
ワカはこういう表現をよく使う。私はそれに違和感をおぼえない。むしろ、この感性の塊を削りだしているような表現力に脅威さえ感じる。Nさんにこんなこと云ったら叱られるんだけれども。
ワカと散々話をしたあとは、言語感覚が狂うのでNさんが嫌がる。「またそんなわけの分からんこと云いやがって」と。私は今平易な言葉で心の機微を表現しなければならないので、わかと過ごして再び元のぶっ飛んだ感覚に戻ってしまうことを厭うのだ。気持は分かるが、私の本来の性質はワカ寄りなのでどうしようもない。
けれども、そんなワカだからこそ出てくるものがある。それは恐ろしいほどの直感だ。私は迷うと、ワカに聞く。すごく単純に。詳しい話も一切しない。「ヤマダさんとスズキさんって二人の人がいるんだけど。どっちが今名前を聞いていて心地良い?」。質問の内容は、こんな感じだ。これ以上の情報は与えない。すると「んー、ヤマダ。『ダ』が力強くていい感じ」なんて返答をしやがる。私はそれに從う。お互いにこれ以上の話はしない。今のところ、その感覚を信じて失敗したことはない。とても便利だ。自分の直感はときに迷いをはらむ。情報がありすぎると混乱してしまうのだ。当然欲もあるのだから。
こんなのがそばにいて、楽しくないはずはない。突然「どーん!」と叫んでみたり。情緒不安定になって口をきかなくなったり。ワカのバランスはとてもムズカシイ。それを適当な距離を置いてストレスを感じさせないように動く。
わかは今、私の奢り高ぶった鼻っ柱を叩き折ることを画策している。なんとかしてこの根拠がありそうで、実際には欠片もない自信を打ち砕こうと躍起になっている。本当に今、それが現実に砕けてしまいそうで楽しい。わかならできる。Nさんがやりたくて仕方ない、私のこの自信を打ち砕くって作業を、別の次元で別の思考でわかがやろうとしている。
どう砕けるのか。砕けたあとに何が残るのか。
早く現実に粉々になって、再生したい。
今必要な人材なんだろうな、きっと。