人の痛み

わかが最近悩んでいる。そこで私の実践している解決策を教えてみた。
自分の過去の話とか、つらかった思い出を語る人がいる。ときには涙をまじえ、またときには無理をした笑顔を作り、完成された苦労話を語る人がいる。わかからしたら「だから?」と思ってしまうようなことで深刻になっている。
私の持論として「人に話ができるという時点で、その問題はその人の中で既に解決している」というルールがある。本当に傷になっていることは、誰にも話せないのだ。それはとても大きな恥辱になるから。その話を以前わかにしたときに、彼女は3日後くらいに「あれ、当たってるわ。間違いない」と大いに納得し、それから益々人の苦しい話を聞いたときのリアクションに困るようになってしまったらしい。
他人の痛みは分からない。だから、迂闊なことは云えない。けれど、どうしても可哀相だと思えない。と。
私はこういう人にとてもよく出逢う。みーんな同じだ。8割が両親、家族の問題。残りは友人関係。オチまで分かることがあるくらい、うんざりするほど聞いてきた。
最初は静かに聞く。そして尋ねる。「そんな小ネタが私に通用すると思ってるの?」。ここでみんな驚くのだが。私は絶対に逃がさない。認めるまで追い詰める。絶対に相手は認めるのだ。自分の中でネタであるということを。私は口喧嘩では絶対に負けない。認めたら、そこで初めて声をかける。「つらかったね。よく乗り越えたね」。それで相手は救われる。
なぜわかや私みたいに感性だけで生きてる厳しい人間にわざわざ話をもってくるのか。それを考えたら、暴いてやった方が良いのだ。黙って可哀相に・・・ なんて聞く人間が欲しいのなら私のとこには来ないし、わかも人選ミスだ。あいつはきつい。もし私がうっかり「可哀相に」なんて零したら、相手は絶対に心の中で舌を出す。こいつも引っかかった、と。
「あんたそんなに厳しいことしてるん? ひどいな。けど、それは良い手やな」
かずくんの日記を読んで昨日のわかとの話を思い出した。おりえはかずくんの姿勢を、全面的に肯定するよ。泣かせてやれば良いのは、強がってる人間にだけ有効な手段だ。普段から甘えてうだうだ云ってる人間は泣かされて救われたなんて思ってないよ。私は教師まで欺いた! って自信をつけてるだけだ。