言葉が悪かったんだな

人は、自分の欠点を見つけたときに、それを自分の良いと思う方向に転換しようと努力する。たとえば、私は、本来とても攻撃的な人間だ。ちょっとでも気に入らないことがあると、すぐに人を攻撃して黙らせたり、排斥しようとする傾向がある。大学時代、友人たちに散々云われて、がんばっておさえられるようになった。それでも、精神的に余裕のないときには、その性質は出てくる。二十歳くらいから、そういう動向がめっきり減りはしたものの、知ってる人間はよく知ってるし、攻撃するのは私の本質的な性質なので、絶対に死ぬまでなくならない。私は、攻撃的な自分を押さえる努力という形で、メッキをしてる。性質は露骨に出ると人間関係がややこしくなってしまうことが結構あるからだ。メッキというより、コーティング?
よく、心の殻 なんて表現をされているが、私は殻っていうのには少し違和感がある。「殻」と表現するほど、頑丈なものだとは思えないからだ。
コーティングは、人の努力の証だと、思う。だから悪いことだとは思わない。そして、そのコーティングは自分で意識的に施されていることもあれば、周囲の環境により塗り付けられていくこともある。育った環境はとても厳格なのになぜか放蕩な子が育つ。それも、本質的な部分は変えられないから、仕方のないことだ。でも、育った環境というのは、人間のあらゆる場面で垣間見ることができる。私は、精神的な部分で、育ちの良い人が、好きだ。
ずっとイジメにあってきた子が、人の顔色を窺ったり卑屈に媚びたりする。それも、対人関係の中で培われてきたコーティングだ。本質的なところではないけれども、環境に左右されて根付いてしまうものも、ある。これは、性質ではなくて「習性」といえる。会うたびに、私を誉める女の子がいる。それも自然に出てくるのではなく、探して、誉めるのだ。「あ、この子、イジメられてた経験があるんだな」って思ってたら、やっぱりそうだった。本質的な傲慢さが見えるのに表面的には卑屈な人間。こういう人って、ほとんどがイジメられてたことがある。本質的な傲慢さは言動の瑣末な部分に垣間見得るけれども、出てくる態度は卑屈で、必死に歩み寄ろうとする。可哀相で相手するんだけど、そういう子には、たいがい同性の友達がほとんどいない。判断する言動の具体例としては、名前の呼び方が妙に馴れ馴れしいのに一見気配りができるように振る舞う・話す内容が何年経っても変わらない 等が挙げられる。最後の何年経ってもってのは長い付き合いが必要だけれども、最初の「馴れ馴れしく名前を呼ぶのに、気配りができるように振る舞う」ってのは、すぐに誰にでも見分けられると思う。これは男性でも女性でも一緒だ。可哀相なことに、長く付き合ってる友達もいなければ、傲慢さが随所に見えてウザイので、敏感な人間には排斥される傾向にある。