ドッペルゲンガー を思い出した

他人の評価と自分の評価は食い違うという話を、師N氏としていて。「オリエは太陽だ」といろんな人に云われるのですが。私はどちらかというと、自分では月だと思ってるんですよ、って話をしていた。Nさんは「月ってラテン語で何ていうか知ってるか」「はい、ルナですかね」「ルナってなんや」ルナってなんやってなんや。いや、聞きたいことは分かるから、ちゃちゃは入れない。「ルナティック、狂気的ってことですか」「おまえは、ルナやな。一緒にいたら気持が掻き乱される。引力も、ある」 ああ、新しい意見だ。私を月だと認めてくれた人は初めてだ。なんか、嬉しい。気持が掻き乱されるってのはよく分からないけれども。
「私、すごい陰湿だし、根暗なんですよね」
「月も陰れば、日も陰る、やな」
この一言を聞いて、先日見た映画を思い出した。日本の映画で「ドッペルゲンガー」ってやつ。ドッペルゲンガーでもう一人の自分が現れて、それがまったく正反対の人格。あまりにも無茶な行動が目に余るので、そのドッペルゲンガーを殺してしまい、元の温和な人が残ったはずなのだけれど、途中でなぜか殺したはずのドッペルゲンガーの人格が表出してくるって話。これは、すごいうまいストーリーの運び方をしている映画で、感嘆した。一緒に観ていた人が、最後に悪い人格の主人公になっているのを見て「あれ、死んだのは温和な方だったのか。どこで入れ代わったんだろう」って云ってたんだけど。違うと思う。これは、一人の人間は極度な2面性を常に持ちあわせているのだっていうお話だと思う。単に、ジキルとハイドチックなお話ではなく。人間の本音と建前をうまく描いた作品だと思った。
私はすごい陰険な性格だ。すぐ泣くし。すぐ落ち込むし。でも、落ち込んだり泣いたりした分、笑うときも喜ぶときも半端じゃない。すごい両極端なのだ。人間には二面性があるのが当たり前で。それを如実に見た気分だった。
すごく素直でいられる相手ってのがあって、そういう人の前では私は不可思議なくらい単純な性質を示す。些細なことで不機嫌になり、ちょっとしたことで上機嫌になる。すごい波がある。今日、すごい機嫌が良かったのは、一日一人で過ごしたからだ。外界からの小さな刺激の一つ一つに、私は過剰に反応する。朝起きて、外に出て、植え込みに咲いた赤い花に、モンシロチョウが舞っていた。それだけで、とても嬉しくなって、ジャスコまでの道のりがとても楽しかった。しばらく歩いて道に唾を吐いてるおじちゃんを見て、また悲しくなり、自転車を買って上機嫌になる。思ったまま、ありのままの自分を出し続けると、私は楽に過ごせる。
一緒にいて「どうしたの?」なんて云う人は近くにはいれない。「うざい」と一蹴してくれると、とてもありがたい。ただ私は感じるままに表に出しているだけなのだから。慰めてほしいわけでも、知ってほしいわけでもないのだ。何か言葉がほしいわけでもない。でも、多くの人は対応に困るらしくて、あたふたし始める。陰湿で根暗な私が表に出てくると、困ってしまうであろう人には、やっぱり素直にはなれない。不機嫌にはなるけどな。陰険にはなれない。
不機嫌を隠しきれるほどオトナじゃないんだな。そこが問題だ。