否定・肯定について

えんまくんの意見
「できて当たり前やと思われてたら、人は誉めてくれへん。100やっても100できる人やって思われてたら、それが当たり前になってしまうやろ。そこでダメ出しされるっていうのは、もっとできるって思われてるってことで、逆に言うと能力を認められてるってことや。簡単に誉められるってのは、最初に何もできないって思われてるからほめ言葉が出てくるんちゃうんかな。オリエはそれだけ有能やと思われてるんやろ。何を凹んでるんや。俺は誉められへんかった時は、この人俺を認めてくれてるねんなって思うし。誉められたときは認めてもらえた、って考えるけど」
ああ、そうだえんまくんは、恐ろしいほどポジティブシンキングなんだ。この男は単純だけど凄味があっておもしろい。
ワカの意見
「ふっ。あほくさ。それ、もっと上を望まれているのか、単に無条件に否定されるんなら、あんた八つ当たりされてるねん。その人は負けたくないとか思ってるんちゃう? あんたは劣等感を人に植えつけるタイプやから。でもな、負けたくないって思った時点で、どっかで負けを認めてるってことやろ。いつものパターンやん。でも、それで凹むってことは身近な人間なんか。身近な人間やったら間違いなく八つ当たりやろ。その人、精神的にまいってるんちゃうん。あんた癒し系とか云われてるんやから、癒したりぃや。あんたのそんなくだらん悩みより、あたしの手の方が重症やわ」
ワカの意見が一番しっくりきた。私はこの後手の傷について聞いて笑い続けた。洗い物途中でコップが割れて、指をざっくり切ったらしい。22針も縫ったと。オリエの人生で唯一の大怪我(縫うほどの怪我)で4針。5.5倍だ。しかも医者が「痛み止め、どうする? バファリン、一粒飲んでてくれたら良いんだけど」とのたまったらしい。え、一粒ですか。「あれ、二粒かな、どっちか説明書読んで飲んでよ」「ああ、はい」。医者が「粒」って云うな! しかもバファリンって! 当然、バファリンじゃ痛みがおさまらずワカは電話の間終始不機嫌でおもしろかった。愚痴に付き合ってもらったので「バファリンもう一粒飲んでみたら?」とアドバイスしておいた。しかし粒って。ワカの手の怪我の方が、否定・肯定問題よりも遥かにおもしろかった。うん。
人は、他人の評価を求めて生きている。どこかで誰かに肯定されていないとダメになる。ワカのように自分を常に否定し続けて生きている人は、絶対周囲から肯定され続けている。そうしてバランスをとっているのだ。私はいつも肯定されて誉めちぎられて生きていたので、バランスが悪い。私のことを存在自体から全否定する人が何人かいて、会うたびに文句を云う人もいるが、私がその人たちをあまり認めていないので、気にもならない。親しい人は、私を正座させて説教したりするが、指摘であり納得できるので素直にごめんなさいって云える。否定と指摘はやはり、違うのだ。
人が恋人と呼べる存在を求めるのは、自立を始めて家族以外のところで自分を肯定してくれる存在を探している作業だと思う。常に彼氏彼女がいる人は、いつも他者からの評価を強く求めている人に多いのだ。なので他人の目を引く。不細工なのにモテる人は、そういう意味で自立できていないのだろう。
ずっと誉め上手だと云われてきた。何も意識せずに凄いと思うものを凄いと云っているだけで、オリエは誉めてくれるから嬉しいとよく云われる。誉めてるつもりなんてない。凄いんだもん。いらないCDを削ってギターのピックを作ってる子がいた。器用に削って、元がCDだなんて分からなかった。なんてかっこいいことをするんだ! と思い、一個ちょうだいよーとねだり、すごいねすごいねと言い続けた。本当にそう思ったんだが、本人は最初「貧乏くさいって思ってるやろ」と。なんでそんな風に受け取るのか分からなかったんだけど。貧乏くさいなんてこれっぽっちも思わなかった。CDを削ってピックを作るって発想自体がすごいし。それを自分の手の形に合わせて削るってのも、すごい。カッコイイ。誉めてるのではなく、単に私の価値観で良いと思ったら良いね、って言葉にしてるだけなんだけど。
でも、それで良いんだって思う。人はいつも評価を求めていて、誉められると嬉しいもんだ。叩いて育てるってのがあるけれど、私はそういうのは好きじゃない。叩くってのは欠点を補うって意味合いが強いように思う。でも、欠点って人を傷つけない程度のものなら、あって良いし、それも含めて好きになれば良いんだし。それよりもやっぱり長所を伸ばす方がずっと楽しいし、誉めている部分だけでなく、不思議と他の部分も勝手に成長したりする。長所を伸ばして、相手を認めていると、相手は思わぬ方向に伸びていって驚かせてくれたりもする。それが楽しい。
「評価はせなあかんよ。評価して、評価されて、良いものが作られていくんやから」
そう云ってくれた人がいた。私はそれを聞いて、うわああああっ って思った。こいつの云うことは的を射てる。自分が評価を待ってるだけではいけない。他人を評価していくことによって起こる評価スパイラルとでも云うのだろうか。その循環が良いものを作り上げるんだ。この言葉を聞いてから、私は他人が作ったものを素直に評価するようになった。ゲイジュツは分からないんだけど。でも、好きか嫌いか、それだけでも良い。どんな印象を受けたかを、思ったまま口にするようにしている。「これ、好き。なんか、お母さんみたいな温かさがある」とか。「あんまし好きじゃない。なんか、憎悪みたいなのを感じる」だとか。案外その直感って当たってるみたいで。「これは、大地をイメージして作ったから、お母さんって云うのは嬉しい感想だな」とか「そうやねん、これ作ってるときに失恋してさ」だとか。そういうのが出てきて結構楽しい。そして、悪意を持って評価してるのではないことを相手は分かってくれているので、好きじゃないと言い切っても素直に受け入れてくれるのだ。その作品自体を否定しているのではなく、ただ私はこう感じる、それを伝えるだけでも、作った人は喜んでくれるし、次の作品への活力に繋がるのだ。
人を評価する。肯定する。それと否定は違う。私は絶対に否定はしない。受け入れられないものはあるけれども、存在自体を否定するものではないし、嫌いな人間に変化があれば、それは「がんばったね」って評価する。
ワカの意見を受けて、忘れていたことを思い出した。
人に肯定されたければ、肯定してもらえるだけのことをしなくてはならない。何か、原因があるのだ。私に。まず、私が肯定しよう。まず、私が受け入れよう。それでダメなら、ダメで良いんだ。良い勉強したと思って、次に目を向けよう。