私の嫌いな自意識過剰「虚勢型自意識過剰」

人は、みんな必死に生きてる。生きてるっていうのは、ただそれだけで、とてもしんどいことだ。どんなに成功を納めた人にも苦悩はあるし、飢えに苦しんでいる人にも辛いことはある。質が違うだけで、本人にとってはとても重要な問題であることには変わりない。質が違うだけで、各個人によって内部に占める量は同じだ。悩みの質は、大切だと思う。それは当然無視できない。けれども、それと同程度に「量」も大切だと感じる。
失恋するたびに、自殺未遂をする友達がいる。覚醒剤2グラム飲んでも死ねなかったんだから、人って簡単には死なないよねぇと笑うんだが、彼女にとって恋愛ってのは、それくらい重大なことだ。失恋で自殺・・・ 私には考えられないけれども、彼女は断言する。「私は何事にも一生懸命。一生懸命好きやってん」。そこには何の嘘も見栄も、ない。
親が離婚したって、泣きながら電話してきた友人の家に二日間泊り込んで、ずっと相手をしていたことがある。私にとって慣れっこな親の離婚も、その子にとっては大問題だった。
人の痛みは、分からない。だから、私は、人が訴えるままに痛みを受け入れようと勤めている。
私は、おかしなところで感覚が麻痺してしまっていて、少々のことだと「何が悲しいの?」って思ってしまうのだ。なので、気を抜くとつい「そんなん大した問題じゃないやん」なんて思ってしまう。私と他人の差異を、常に考慮しないと、相談になんてのれないのに。
各個人によって、重要な問題は異なる。対人関係にもっとも神経を使う人もいれば、家族問題に敏感な人、お金に悩む人。恋愛に全てを注ぐ人。みんな大切なものは、違う。私には到底理解できないことも多々ある。だから、訴えられるまま、受け入れる。人の痛みは、他人には、私には、分からないから。あらゆる想像力を巡らせて、私は、感じるようにしている。今この子にとって、どれくらい重要な問題なのか、この子の中でこの問題はどんな風に捉えられているのか。
飢餓にあえいでいる人と、大富豪、どっちにも悩みはある。
飢餓の真っ只中にいる人は、「今、生きる」ことが一番の問題で、今与えられた環境の中でどうやったら自分が少しでも豊かに生きていけるのかを模索する。大富豪は、有り余るお金と退屈をどうやってより有意義に活用できるか、に悩む。質はまったく違う。けれども、今与えられた環境が常に各個人の全てであるのだから、悩みの絶対的な量というのは、変わらないのだ。
親の離婚。一家離散、虐待。私にとって、それは「ふーん、だから?」って程度の問題だ。私にとっては、あまりに日常だったために、私は「親に虐待されて」なんて云う子の悲しみが理解できなかった。問題に直面した人間がそこから逃げようとする恐怖心も理解できなかった。戦えよ、自力で這い上がれよ。そう思ってイライラしていたこともある。でも、それじゃダメだなって考えた。悩み事には「絶対量」というのが存在するのだ。
その「各個人における絶対量」の大きさで、ある程度人の苦しみは、個人の環境の差を抜きにして、偏差値的に計れるのではないかな、と考えた。計ってみると、まぁみんな大変だ、ってことが分かる。お気に入りのヌイグルミの耳が取れたことで本気で泣いて電話してくる女が、覚醒剤のんで自殺を図ったりするのだ。他人から見たら下らないことも、当人の中では差異はない。悩みは個人の環境によって大きく質が異なり、そして、絶対量が重要になる。
つまり、必死にみんな生きていて、悩んで苦しんでるのは、ごく当たり前のことなのだ。繁華街に行くと、5メートルおきにキャッチ、ホスト、風俗の勧誘、ナンパが繰り返し囲む。キヨミは彼らを見て、いつも云う「みんな必死に生きてるね、生きるって本当に大変だね」。手段はどうであれ、生きることに、必死なんだ。より豊かに生きるために。みんな当たり前に避けられない苦難を乗り越えようとしているんだ。

生きてるのがしんどいのは、当たり前。

で、私の嫌いな自意識過剰だ。「私は必死に生きてるんですしんどいんです大変なんです」と、当たり前のことを切々と訴える人が嫌い。聞いてて、対応に困る。だって「毎日おなかがすいてしまうんです」って云われてるのと同じなんだもん。「ああ、そうだねぇ」と思う。それ以上でも以下でも、ない。
私は、云ったことは、やる。自分に対して誓ったことは、絶対にやり遂げる。私は自分を追い込み逃げ場を斷たないと頑張れない根性無しなので周囲に公言するが、私の友達のほとんどは、不言実行だ。何も云わない。黙々と、進む。一日3時間しか寝ない生活が何ヶ月続いても、何とも思っていない。「大変だねぇ」と声をかけたら、返ってくる言葉は決まっている。え?何が大変なん? 。生きてるのはしんどくて当たり前。それを知ってるから、何も主張しない。そんな人間が大好きで、愛しくて、辛い苦しいのを黙って乗り越えようとしているから、私はそれを、全力で守る。手はかさない。でも、守る。
当たり前のことを、したり顔で語る人が苦手だ。頷いてても、眠くなる。
私は、自分だけが頑張ってると思ってる人が嫌いだ。自分だけが悲しいと思ってる人を、認めない。
すごく好きな話で、F1レーサーの人の言葉がある。チーム内のゴタゴタでマシンの調子が絶好ではなくて、リタイアしてしまった。レポーターは聞く。やっぱりチーム内の揉め事が敗因の一つでしょうか。彼は答えた。「いいえ、関係ありません。僕の実力のすべてです」与えられている環境が、今の自分の全てだ。それ以外には、何もない。環境は、強い。どうしようもないもんだ。それを、彼は知ってたんだ。リタイアは誰のせいでもない。そのチーム内の揉め事を乗り切るだけの才能と実力が俺になかったから負けた。それだけだ。私はこれを聞いて、痺れた。
抗えない環境ってのが存在する。自然の営み、社会的な拘束。無数にある環境という名の規制の中で、生きていくしかない。そして、その環境に憤る前に、まず自分がやれるだけのことをしないと話にならない。
そんな、みんなが必死に生きてるのが当たり前な中で「私は頑張ってるんです、私は可哀相なんです」と訴えてくる人がうんざりするくらい、いる。そして、そういう人に限って、みーんな、ポーズだけだ。
何かをしてる「ふり」をする。そのポーズが実際に行われているのなら、まだましだ。だって、わずかでも先には進んでいると思うから。でも、ほとんどの人は、云ってるだけだ。「私はやれるだけのことはやってます」わっはっは。瞬時に見抜ける嘘をついて良いのは、エイプリルフールだけだぞいい加減にしろ。厳しいけれども結果が全てだ。そして、それまで生きてきた結果が、今のその人自身だ。過去も全部含めて、今、そこにある人が、結果なのだ。まだまだ発展途上かもしれない。でも、プロセスを見ていれば、ある程度結果は予測できる。そのプロセスに内容がないんだったら、その人の過去にも、中身はない。でも、云うことはとても立派なのだ。それは何かのアジテーションですか? 聞かれた本人はきょとんとしていたが、私と同じ感覚を持つワカちゃんは隣で大爆笑だった。
ポーズだけで中身のない人。内容のない人。必死で生きてるのは、分かる。だって、それが当たり前なんだもん。自然なことなんだもん。食事をして排泄をする。それと同じくらい当たり前のことだ。それを、わざわざ主張する人がいる。それが、嫌いだ。「私が、私だけが」そういう自意識過剰が不愉快極まりない。笑う気にも、ならない。わざわざ主張する必要性が分からない。それは、自分に関心を持って評価してもらいたいだけじゃないか。内容が伴っていないものを、どう評価しろと云うのだ。私は中身のない人間は嫌いじゃない。ありさが、そうだ。あいつには、びっくりするくらい中身がない。でも、ありさは云う。「何も努力してないねんから、私に中身があるわけないやん」。私はそんなありさが好きだ。ご丁寧に自己主張する人も、嫌いじゃない。みんな評価を、賛辞を求めて生きているのだ。誉めてあげたいと、思うし、そうしてる。嫌いなのは、何もしてないのに自分だけが頑張ってる、自分は人よりやってる、ってアピールしてくる人だ。そういう人の「がんばる」って言葉は、アルコール中毒の人がお酒をコップに注ぎながら「酒、やめなあかんよなぁ」って云うのと同じだ。何も、ない。実体が、内容が、ないのだ。それならば、黙っていれば良い。何も云わなければ良い。でも、云う。「こんなに努力してるんです」って。
そしてそういう人種はほぼ100%、何でも人のせいにする。全て自分の選択なんだ。すべて、与えられた環境なんだ。環境も含めて、その人の実力。その環境がイヤなら、抜け出せるところまで這い上がれば、良い。ただ、それだけのことだ。
小さい頃、私は習い事をしたかった。でも、云えなかった。云えば、させてくれる。でも、私は知ってた。うちがすごい貧乏だってことを。それが、私に与えられた環境。誰も責めることはできないし、責める気にもならない。本当にやりたいなら、今自力で習えば良いんだし、小学生の私でも働かせてくれるとこはあったのだから、自力で稼げば良かったのだ。でも、私はそれをしなかった。我慢したとも思っていない。自分で何もしてないんだから、叶うわけがない。そんな自然な結果だったってだけだ。
虚勢、それが今私のもつ語彙の中では最も的確のように思う。でも、空威張りってのは、微妙に違うような気がする。もう少し、考えてみよう。「虚勢(ポーズ)型自意識過剰」。どうだろう。